昭和42年04月14日 朝の御理解
例えば大黒様の打ち出の小槌を持ってござらない、大黒様であったとしたら、それはもう値打ちはない。もし恵比寿様が鯛を小脇に抱えてござらなかったら、おかしな恵比寿様だ。ようにそれぞれの値打ちというものがですね、大黒様はやはりうちでの小槌を持っておいでられると言う所に値打ちがあり、恵比寿様はやはり鯛を小脇に抱えてござるという姿じゃなからなければ、ほんとな姿ではないおかしな姿であるように。
私共信心させて頂いておる者が、おかしな人じゃなと言われるような事があったり、あれじゃ信心頂いておる値打ちはないじゃないかと言われる様な事が、また自分で思う様な事では詰らん事だと思うのですけれど、皆さんどうでしょうか。信心頂いておる値打ちが、自分はどこが値打ちがあるのだろうか。果してもし信心のない人から見られて、信心は頂いておるけれどもおかしな人じゃな。あの人達はと言われる様な所はないだろうか、私は猛反省するべきだと思うですね。反省しなければいけません。
どうでしょうか。成程信心しよんなさるが、信心を始めらっしゃったが、成程違いなさると良い意味合いにおいてね、成程信心しよんなさるが家も繁盛していくと、家庭も円満にいくと。成程信心の値打ちというのは、あそこにあるのであろうかと、例えば言われ思われするようなおかげを、私共自身が受けていかなければならないと思うのです。いわゆる信心を頂いておるものの値打ちというのはどこにあるのでしょうか。信心頂いておるものがおかしいと言われる時はどう言う様な時でしょうか。
信心のあるものもないものも同じ。信心のないものが腹を立てるときに、信心があっても腹を立てるなら値打ちはないですね。信心のない人が心配をするときに、信心があっても心配しておるならば、それは値打ちはないですね。『これから先どのよなことがおこって来ても驚いちゃならんぞ』と仰るような神様を頂き、神様を信じきって日々の信心の稽古に、信心生活に励まして頂いておるものとしてはです、それははじめから値打ちのあるというものはありませんけれども、その値打ちを目指してお互いが信心の稽古をしていかなければいけないと私は思うんです。
どうでしょうか、そういう値打ちを高めていく。いやそういう値打ちが段々ついていきよることを、楽しみに信心の稽古をしておるでしょうか。信心の値打ちというものは皆さんどこにあると思いますか。いやこれはもう信心を頂かなければ頂けないもの。私は御神徳を頂くことだと思う。どんなに素晴らしい人徳をもっておっても、どの様に沢山の例えば財産をもっておっても、御神徳だけは御信心を頂かなければ頂けんものなのね。ですから、その御神徳が身について行くと言う事が値打ちなのね。
例えばここにコショーがあると致しましょうかね、あの辛いコショーね。例えばうどんならうどんを頂くときに、コショーを入れると致しましょうか。ぴりっとくる辛い。辛いけれども味はいい。やっぱりうどん全体の味をひきまわす。ところがどうでしょうそのコショーが辛いもどうもなかったら、どがしこいれたっちゃこれはきかん。辛うない。そういうコショーはもうコショーとしての値打ちがありませんから、捨てられることは間違いないですねね。
いやこのコショーは効く、とひとすくいいれたっちゃこげんコショーちゃ辛いもんだと言われながら、やはり人に喜ばれる。信心も同じことですよ。信心を頂いて人間氏子としての値打ちがです、ほんとにでけていくときに、私は人間が例えばコショーならコショーの辛くないのをもう捨てていくようにね、辛ければ辛いでそのコショーを大事にしていくようにね、そのコショーの値打ちをはっきするから大事にされるのである。人間氏子でも同じこと、神様と私共の間のことでもいっぺん同じこと。
あの氏子はとあの人間はと、例えば値打ちのある値打ちを作って行く所にです、神様からいよいよ御寵愛を受けることのでけれる御神愛の中にいよいよおかげをこうむっていけれる、私はおかげが頂けれると思うのです。ところがそういう値打ちと言った様なものは一つも考えもせず、ただ御利益があるけんでとか、と言う様な程度で、もし信心が長年続けられるとするならでばです、そういう信心は値打ちがない。
真の人間にならせてもらおう、真の信心を分からせてもらおう、真の人間とは真の信心とはとそこんところを追求して、分からんなりにでも真の人間にならんならつまらん。信心して真の道を踏まんと仰るが、真の道とはどういう道だろう。真の人間とはどう言う事をもって真の人間というであろう。真のおかげとはどういうおかげをもって真のおかげのというのであろうかと、そこんところを追求していくところの信心。そういう信心が私は値打ちがあると思うんです。
昨日ある方がお参りをしてまいりましてね、先生私はもうつまりませんという。なんでそげんつまらんかっち申しましたら、先日からお取次ぎを頂いて、あることをお願いして、あることの修行をに取り組んだ。ところがですまだ1週間もたたないうちにです、もうその神様との約束を破ってしまいましたと。1回2回ではございません、私はもう大体この様な人間ですもん。私はもう皆さんのような信心はでけませんね。
神様にいわば約束をほごにしてしまうような私は、ほんとに私ごたっとがバチかぶらなきゃ誰がバチかぶろうかいと言うて悔やまれます。だからもうほら神様にお約束やらでけませんというわけなんですよ。なるほど他宗派他宗教にはそう言う様な厳しい掟がございますね。いわゆる仏教ではそれを、破戒と申しますね。キリスト教でも十戒というのがあります、厳しい掟があります、( ? )戒めのことですね。仏教でも五戒という難しい戒めがあります。
仏教の修行をするなら、例えば生臭けは食べちゃいかんとかね、今はそれはないですけど、坊さんがその嫁さんをもらろうちゃならんとか、女に接しちゃならんとか、と言った様な大変むつかしい掟があるのですよ。そう言う様なものを破った時に、それは破戒僧だというふうに言われますね。威を破ったというわけなんです。もうそういうものは仏教で言うなら、もうそれこそ地獄に落ちていくというわけなんです。しかし恐ろしい宗教のあったもんですね。その戎を破ったら地獄に落ちる。
私は天地の親神様ていう方はそういう方じゃないと思うんですね。人間だもの生身を持っておるんだもの。腹がへりゃやっぱりひもじいね。たたかれりゃ痛いかゆければやっぱりかゆいと、やはり悲鳴を上げる様な所もあるのですけれどね、その痛いかゆいの中にです、様々な欲望感情の中にです、私は真の道を求めていくのがお道の信心だと思うんです。だから私は申しましたあのね、そんなことはないよって。教祖の神様がやはりね、( ? )一生が修行だと仰るが、一生が修行なんですよとね。
でけんでもでけんからというて、神様にお取次ぎを頂かない。もう自分が失敗したから、もう自分みたいなもんはおるまいというて、自分というものを、いわばつまらないものとしての見方ね。自分のごたるもうつまらんもんななか。自分のごたるもんがおかげ頂っきるはずはなかっちもう、自分で決めてしまうと言った様な、自己をそういう見方をすることはほんとじゃない、またそれではおかげは受けられないね。
昔ね小野道風という、大変書道の名人がありました。どんなに稽古しても稽古しても字が上達しない、そこで思うた。こりゃもう私は駄目だろうかと思うた。もう自分はいくら稽古したっちゃ駄目だと思うた。稽古の帰りにある雨の日、道を通っておる横に、垂れ柳がこうあった。そのふっと見るともなしに見るとそこに、その一匹のカエルがですね、柳の先に白く光っておる雫を、虫かなんかと間違えたんですね。そして一生懸命にその柳の先の雫にめがけて飛び上がろうとしておる。しかもなんべんもなんべんも落ちては飛び落ちては飛びしておる。それに目が止まった。
ほお小野道風考えたね。興味がでけたんですね。ところがです5回10回とこうそのかえるが飛んでいきようるうちに、段々少しずつによけい飛べるようになった。とうとう最後には柳の木に飛付く事がでけた。それを見たときに心の中に一つの悟りがひらけたんですね。なるほどあれがいやでけんというて、匙を投げちゃつまらん。自分のような下手でも本気で稽古すりゃ上達せんことはないというので、それから改めてその書道の道に励んだということでございます。
当時日本の三筆と言われるほどの書道の大家になられました、現在でも小野道風の書かれた字というのは、もう後にも先にもないといわれるほどの最高の字として評価されております。その小野道風はじめの間はもう自分はつまらん、もう自分は駄目だとやっぱり思った時代があるのですね。例えば私どもが一つの修行に取りかかる、いわゆるそれを破戒する、破る破ったからというて破戒僧としてです。
いうなら地獄堂に落ちていかなければならないと言った様な、私は恐い宗教じゃない金光様のご信心は。それを咎めなさる様な事はない。ろくそにしちゃならん。けれどもそれにそこに精進させて頂いておると言う事。そこを辛抱し貫くほど努力精進しておると言う事ね。そこんところがです、私共は繰り返し繰り返し、お取次ぎを頂き頂き精進させて頂くと言う所にです、私はお道の信心の修行があると思うのですね。
そういう修行をさせて頂く所にです、今日私が申します、人間氏子としての値打ちというものが、いよいよ私は発揮されるのでは、なかろうかとこう思うね。そういう修行をさせて頂いておるならば、なるほど人が笑うても、あの人は信心しよってばってん、いつまで貧乏さっしゃるじゃろうかと、言う様であってもですね、貧乏暮らししござるけれども、信心しござりゃやっぱ違うんだなぁと、言った様なものがある筈なん、私共も20年前そうだった。
信心してどうしてあげん貧乏せんならんだろうかという程に、それこそ食べるに食がない、着るに衣がないといった時代があったんだけれども。そりばってん信心ちゃ有難いこっちゃ、あの家族の沢山の人達がです、それこそこっとりといわんごとやっていきよんなさるとは、やはり信心のおかげじゃと私共は言われてきたね。そしておかげを頂いて段々、例えば大黒様じゃないけれども、打ち出の小槌的なおかげを頂く様になって来たらです、信心の値打ちというものがいよいよ光をあらわしてきたね。
お互い信心させて頂きよってです、恵比寿様が鯛をもってござらんようなおかしな姿はないね。そういうおかしな姿の信心じゃなかろうか。果して信心させて頂いておるけれども、その信心の値打ちというのがどう言う所にあらわれておるであろうか。もし現れていきよらんとするならばです、繰り返し繰り返し、私は真の道真の道真の信心を目指してです、信心の精進がなされていかなければならんと思うのですよね。
どうぞ。